パストラーレ

夢の世に かつ微睡みて 夢をまた 語る夢も それがまにまに

永久と希望の歌

私の母親は近藤真彦さん以来、SMAP、嵐、NEWS、Sexy Zone…と、今でも現役でオタクをしている。そんな母親のもとに生まれた私は、物心つく前から当たり前のようにSMAP×SMAPを見ていたし、SMAPのメンバーの名前はフルネームで全員言えた。それが1990年代の話だ。

1999年、嵐がデビューした。当時はまだ小学校に上がっていなかったが、母親の車内で嵐の曲が流れていたことは覚えている。小学校に上がり、初めて私がかっこいいと思った芸能人が「ごくせん」の松本潤だった。24時間テレビでギターを弾いていた二宮くんに、名前も分からないままにひとめぼれした。大好きで毎週見ていたドラマのひとつが、櫻井くんが出ていた「よい子の味方」だった。この頃はまだそこまで芸能人に興味がなかったので、ぼんやりとした記憶でしかないものの、確かに私の生活には気づけば嵐がいた。

2005年、「花より男子」が放送された年。この時私は小学6年生になっていた。この頃になると、周りにもジャニーズ好きな子が多くなっていて、「道明寺と花沢類、どっち派?!」なんて会話がされていた。「ごくせん2」の仁亀論争や「野ブタをプロデュース」の亀P論争も同時期だっただろう。この頃から、年齢もあり今ほどではないものの、嵐のことが好きだったと思う。

中学校に上がった頃には、嵐はどんどん人気になっていた。ふわふわと母親の横で嵐を見ていた私にとって決定的だったのは中学3年生のことだ。最強の大野担と同じクラスになったのだ。彼女は当時大野くんが使っているとされていた香水をティッシュにしみこませて登校していたし、もしコンサートで大野くんが投げたタオルをゲットしたら冷凍保存すると言っていた。(最近会った彼女いわく、あの頃は病気だったらしい)そんな彼女の家に行き、一緒にDVDを見て、たまにジャニショに行き、火曜日には宿題くんの話をしていた。楽しかったなぁ。

この頃の私というのは、嵐で好きな人を聞かれたら「櫻井くんと二宮くん」と答えていた。優柔不断かよ。

中学を卒業し、彼女とは別々の高校に進んだ。中学時代はまだFCに入っていなかった彼女と私がFCに入ったのはこの頃のことだ。FCに入るにあたり、好きな人を1人選ばなければいけないという大問題に直面した私。当時はFC代の半分を母親に出してもらうという話だったのだが、母親から「潤くんか翔くんか大野くんがいいな~」と選択肢を限定されていた。にのあい信者の今の私が聞いたらぶちギレ案件である。そんなこんなで櫻井くんで登録した。嘘はついてない。これについては後述する。

私が初めて行った嵐のコンサートは5×10、1月17日のナゴヤドームだった。土曜日に高校で模試を受けた後にグッズを買いに行ったら目の前でチャームが売り切れたの、今でも忘れないな。

高校時代はSNSもやっていなければスマホでもなかったけれど、ネットを通じてそれなりにオタク生活を楽しんでいたと思う。2010年頃はにのあいに狂ったなぁ。国立ちゅー事件とか、じゃじゃ丸事件とか、Android auの相葉さんの告白とか、スーパーマリオGalaxyとか、供給過多すぎませんでした?最高かよ。ちなみにじゃじゃ丸事件の公演行きました(自慢) その公演でスタンド最前に入ったこと、One Loveで二宮くんのフロートが目の前に止まったことは一生の思い出だと思う。ちなみに翌日熱出した(馬鹿) この辺りから、「“アイドルとして”好きなのは二宮くんなのでは…?」と悩みだすようになる。

2011年、受験の年。この年は日本全体にも暗い雰囲気が漂っていた。嵐が果てない空を歌っているのをよく見た記憶がある。とは言うものの、絶対に行きたい大学、学部が出来た私は勉強に専念しており、あまりTVを見なくなっていた。


さて。今やにのあい信者の二宮担な私だけれど、中高時代に「好きなのは櫻井くんと二宮くん」と言っていたのは本当に嘘ではなくて。今も昔も、私にとって、櫻井くんは道標のような人だ。中学、高校時代にZEROやそれに付随した特集をもれなく見ていたのだけれど、そこでよく昔の大戦や今起きている世界の紛争、歴史について話していた。それを見ていた私は「絶対に大学で世界史をやりたい」と思うようになった。知ることが抑制力になると思ったから。そして、知ったうえで伝えないといけないと思ったから。
受験期は、勉強が嫌いなわけではなかったけれど、プレッシャーや不安で本当につらくて、何度も何度もめげそうになった。その度に、櫻井くんのことを思い出していた。

ずっとずっと勉強詰めの毎日だったけれど、センター試験の直前、1月8日。Beautiful Worldがナゴヤドームで開催された日。自分の中で、最後の模試で点数を取れなかったら行かないと決めていた公演だった。無事に取れたご褒美として、頑張る糧として、この公演に参戦した。最初に歌われた「僕が僕のすべて」を聴いたとき、涙が止まらなかった。本編ラストで歌われた「果てない空」は、その後受験を乗り越える時に何度も何度も私を支えてくれた。アンコール最後の「エナジーソング」で聞いた「一番になって必ず戻るから ここ 名古屋に」というフレーズを胸に、絶対受験を乗り越えてまたここで嵐に会ってやると頑張っていた。普通ならあり得ないと思うけれど、この公演に行くことを許してくれた母親には今でも感謝してもしきれないな。


無事志望校に受かった私は、サークルやバイトなどでなんだかんだ忙しい毎日を送りつつ、オタク生活も楽しんでいた。大学2年生頃にはTwitterでオタク用のアカウントを作って、知り合った人たちとコンサート等で会ったりお休みの日に遊んだりするようになった。今はもう繋がっていない人もいれば、今でも嵐のみならず関係ない共通の趣味で仲良くしている人もいるけれど、嵐がきっかけでできた繋がりがたくさんあった。

大学時代には、気づけばすっかり二宮くん可愛いかっこいいにのあい尊いと言っていて、社会人になった今でも変わらずにのちゃん可愛いにのあい尊いと言っている私だけれど、私は嵐だけを真っ直ぐに追い続けていたわけではなかった。嵐だけを純粋に追いかけている人に、どこか申し訳ないという気持ちはいつもあった。

これは仕方のないことだと重々承知しているけれど、嵐以外の私の好きな人が嵐ファンの人たちに袋叩きにされているのを見たとき、すごく傷ついたし、本気で嵐を好きでいていいのか悩んだ。これ以外でも、嵐を好きでいると、嵐本人たちと関係のないところで傷つけられることがあって、好きでいることを何度も諦めかけた。それでも、私にとっては傷つきながら好きでいることより、好きでいることを諦める方がつらかった。


2018年12月。中学3年生に出会った大野担の彼女と、5×20のナゴヤドームに参戦した。彼女と参戦するのはこの日が初めてだった。彼女と2008年に出会って10年の記念の公演に行ったこと、不思議なめぐり合わせだと感じた。

私が初めて行った嵐のコンサートである5×10と一緒のナゴヤドーム、1曲目の「感謝カンゲキ雨嵐」。どうしても嵐と過ごした年月、思い出を思い出してしまって、オープニングから涙が止まらなかった。二宮くんを見て、「初恋を人間の形に具現化するなら、私の場合は二宮くんみたいになるんだろうな」と思った。好きの形や温度は変われど、間違いなく私はずっと二宮くんのことが好きだった。

5×20の演出で忘れられなかったものが2つある。「果てない空」と「アオゾラペダル」だ。ふせったーに長文で投げたものを引用したい。

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二宮くんの果てない空でお花が咲く演出について
(2018年12月16日13時47分投稿)
真っ暗で何も見えない中を二宮くんが1人で歩いていくんだけど、二宮くんが歩いた跡に少しずつ草花が芽吹き始めて、色鮮やかな世界を描いていく演出。 その時に歌っているのが果てない空で、それもいつもの歌割りじゃなくて二宮くんのソロパートが多めに振り分けられている。

この歌が主題歌だった「フリーター、家を買う」の印象や、2011年にこの歌がよく歌われていた印象も大きいと思うのだけれど、果てない空って泥だらけで前が見えない真っ暗な中でも、呆れるほど不器用だけど、未来の小さな夢、希望に向かって歩いていこうっていうイメージがある。
その道程には、涙が溢れる日も諦めそうになる日もあると思う。

それでも、歩いていく。

そうしてたどり着いた未来の景色は、草木が芽吹いていて、蝶が飛んでいて、虹がかかっている、明るくて色鮮やかな世界。
最初は真っ暗な中をにのみやくんが1人で歌いながら歩いているのだけれど、少しずつ4人の声が重なってきて、二宮くんの方へ歩いてきて、色鮮やかな草木が広がる頃には4人がにのみやくんの隣にいる。

色鮮やかな夢の世界を見るのは嵐5人一緒じゃなきゃダメなんだと思う。

埋まらない席を布で隠してもらって半ば無理やりツアーを回らせてもらっていたことも、嵐をどうしたらいいかが見えなくて、毎晩毎晩コンサート終わりに遅くまでどうしたらいいか5人で話し合っていたこともあった。
そんな彼らが、今までで無駄なものなんてなかったと言う。

5人で歩いてきた20年、今5人で見ている風景が色鮮やかで輝いていたらいい。

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櫻井くんのアオゾラペダルの演出について
(2018年12月16日14時08分投稿)
二宮くんは真っ暗な世界に色鮮やかな草花を芽吹かせていったけれど、櫻井くんはモノクロの世界に色をつけていっていた。 果てない空の主人公は20代の社会人って感じなんだけど、アオゾラペダルはもう少し若い、10代半ばから20代前半の学生くらいなイメージがある。

大人は塗り絵を綺麗に塗ろうとする。
「ここはこうだからこの色でなければいけない」と、違う色で塗る者に口を出したり笑ったりする。

果たして正しい色とは何なのか。
自分をよく見せようと必死に取り繕って綺麗な色ばかりを重ねて、かといって周りから浮きたくないから、笑われたくないから必死に周りに合わせて。 でもそんな自分に中身なんてなくて、どこかでつまづいて。

その失敗をなかったことになんて出来ないけど、それでもいいんだって気づけたら。 そうしたら、明日に向かって自分らしい新しい色で世界を描くことが出来る。

櫻井くんや嵐がモノクロの世界に付けた色は、赤、黄、緑、青、紫だった。

嵐らしい、嵐の色で世界を彩っていた。

その世界では、真ん中に5人が寄り添って笑っている。

櫻井くんは「この5人なの?」が「この5人なら」に変わり、もう今は「この5人じゃなきゃ」ダメなのだと言い切った。 それは他のメンバーも一緒なんだろうと思う。

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これらの演出を中心に、嵐の5人がそれぞれ嵐のメンバーのことを大好きで、「嵐=5人だということ」を痛感するコンサートだったと思う。


2019年1月27日。私は朝から仕事に出ていた。たまたまだろうけれど、午前中に仕事をしている中で、Popcornのカバンを持ったおばさま、スマホの画面が緑の嵐マークだったお姉さんに出会った。声こそかけなかったものの、「嵐ファンってどこにでもいるな、すごいな」と思った。
夕方、現場から戻った時、母親からLINEが来た。

「嵐が活動休止だって」

真っ先に、何か悪いことが起きたのではないかと思った。すぐにTwitterを開いた。悪いことが起きたわけではなかったものの、みんなが困惑していた。まだ仕事中だった私は、ひとまずコメントや動画は帰ってからと決めて職場を出た。
仕事を終えて、バス停でバスを待っていた時、隣に部活終わりの中高生と思わしき3人が座っていた。女の子が2人と、男の子が1人。
最初は気に留めていなかったが、聞き覚えのある声がその子たちの方から聞こえた。潤くんの声だった。3人は、これから私が家で見るであろう動画を見ていた。途中で、男の子が泣きだした。どれだけ多くの人に嵐は愛されているんだろうと思った。


私は「アイドルとは何か?」「好きでいることはどういうことか?」ということをよく考えている。私にとっての「アイドル像」や「好きの形」は年月を経ながら変わっている。
2019年、年が明けた頃から、たまたまではあるがこれらのことについて深く考えていた。

いつからか、私は自担たちに対して「アイドルなんて言葉で縛りつけてごめん」という罪悪感を抱くようになっていた。それこそ中高生の頃は「プロならプライベートを隠してくれ、夢を見せてくれ」などと少なからず思っていた記憶がある。ただ、どこかのタイミングで彼らの不自由さや人間に偶像を背負わせることの重さを感じるようになった。勝手に好きになって、勝手に期待して、勝手に裏切られた気持ちになって、勝手に離れていく。「好き」ってなんて自分勝手な感情なんだろうなと、ずっと考えていた。

こう考えている中で、アイドルのファンは、アイドルという人の人生を、彼らも私たちと同じ人間であることを半ば忘れているかのように消費して勝手に幸せになっているんだなと思った。ファンに彼ら・彼女らの自由や人生を奪う権利なんてないと思ったし、こんなに縛られて自由のない「アイドル」という職業を強いるなんて残酷だとまで感じた。私は生まれた頃から当たり前のようにアイドルを見てきたし、アイドルのことは間違いなく好きだけれど、アイドルという職業を肯定できないと思った。

それならせめて、私の好きなアイドルの皆さんには、「好き」「ずっと味方でいる」ということしか伝えたくない。「好き“だから”~」という、自分勝手な好きを理由に、好きのその先にある自分のエゴを押し付けるなんて絶対したくない。
こうした考えに至り、年明けからもやもやとしていた思考が整理されたのが、自分のTwitterから推察するに1月22日のことだった。


皮肉にも、自分の中でこうした考えに至った直後に嵐の活動休止が発表された。私の思考を読み取っていたのかと疑いたくなるくらい、既に気持ちが整理された中での発表だった。号泣する準備はできていたから、涙なんて出てこなかった。「そっか、そうだよね」と、受け止めるしかできなかった。いつも思うことだけれど、こういう時に私は意味が分からないほど冷静で、もっと泣きわめいたりして感情的になれたら私はもう少し生きやすいんだろうな。


今、会見を見ながらこの記事を書いている。彼らはこんな時でも変わらず嵐だな、なんて思いながら。こんな時でも変わらない雰囲気の彼らに救われながら。
以前、二宮くんは「嵐は基本的に多数決だけれど、1人でもやりたくないと言ったときは絶対にやらない」と言っていた。今になって、こういうことだったのかな、と思っている。嵐5人がこだわり続けた「5人で嵐」ということ、“5×○”の、“5”という数字が変わらないことの意味、重さ。1人でも欠けるなら、それは嵐ではないということ。

自分でもわけがわからないほどに気持ちは落ち着いているし、落ち始めるとどこまでも落ち続けるタイプだから明るく振る舞うようにしているけれど、ふとした時に寂しくなって泣いてしまうんだろうなと思う。今もまったく寂しくないと言えば嘘になるけれど。


私の好きな嵐の楽曲のひとつに「PIKA★★NCHI double」がある。2004年、当時まだ20代前半だった嵐が歌っていたこの楽曲に漂う青臭さが今でも好きだ。私は何故か、嵐が未来のことを語る時はいつもこの曲を思い出してしまう。

“いつまでも語り続ける 永久と希望の歌を たとえ今だけと分かっていても”

未来のことを語る嵐は、いつも笑顔だった。永遠なんてないと、嵐もファンも、誰もが心のどこかで分かっていたと思う。それでも、永遠があるのではないかと夢を見てしまう力が嵐には確かにあった。


2020年12月31日を、私がどんな気持ちで迎えるのかは今はまったく分からない。ただ、その時も変わらず私は、二宮くんのことが、嵐のことが好きなんだろう。なんなら、その先もずっと二宮くんのことが好きだと思う。ずっと私にとって初恋のような人だと思う。

私にとって、嵐は人生だと言っても過言ではないと思う。彼らがその日まで自分たちらしく笑って描く景色を、しっかりと心に刻んでいきたい。