パストラーレ

夢の世に かつ微睡みて 夢をまた 語る夢も それがまにまに

「推しが燃えた。」

※『推し、燃ゆ』の作品の内容に触れていますので、ご注意ください。

 

 

 

 

推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。

 

そんなドキッとする一節から始まる宇佐見りんさんの『推し、燃ゆ』。第164回芥川賞を受賞した作品だ。

 

2020年12月18日、第164回芥川賞直木賞の候補作が発表された。私が本作を知ったのは、その約2か月前のことだった。

 

 

 

 

私は人生の大半を、アイドルを推しながら生きてきた。そんなアイドルをスキャンダラスに報じる週刊誌やネットニュースという類のものが私は好きではない。ただあの日、どうしてかこの記事に出会った私は、吸い込まれるようにこの記事を読んだ。「私の話だ」と、直感的にそう思ってしまったのだ。

 

 「読まなきゃ」と、そう思った。「読みたい」ではなく、「読まなければならない」という気持ちだった。

 

私には2人の推しがいた。

 

主人公のあかりの推しはファンを殴ったらしい。詳細なことは何ひとつ分かっていなかったにも関わらず、一晩で炎上した。虫の知らせのように目を覚まし、何の気なしに見たSNSの騒がしさにも、「推しがファンを殴った」という文字列が目に入った時に頭が真っ白になったことにも、「無事?」と連絡をくれる友人にも、全て身に覚えがあった。細かなところまで、ひとつひとつが刺さって、痛くなってしまって少し泣いた。

 

アイドルのファンには色々なタイプがおり、その点については本作でも以下のように触れられている。

アイドルとのかかわり方は十人十色で、推しのすべての行動を信奉する人もいれば、善し悪しがわからないとファンとは言えないと批評する人もいる。推しを恋愛的に好きで作品には興味がない人、そういった感情はないが推しにリプライを送るなど積極的に触れ合う人、逆に作品だけが好きでスキャンダルなどに一切興味を示さない人、お金を使うことに集中する人、ファン同士の交流が好きな人。 

 

あかりの世界は推しである「真幸くん」を中心に回っている。CDやDVDはもちろん、過去のグッズも集め、テレビは録画をして何度も見返し、ラジオでの発言は文字に起こし、それらをもとに推しを解釈し、ブログに書き起こす。あかりは、作品も人もまるごと解釈し続け、推しの見る世界を見ようとするタイプのファンだった。

 

ネットの世界では「ブログのファンです」と言われ、落ち着いたしっかり者として見られているあかりだが、現実世界では普通の生活もままならない。学校の勉強は頭に入らず、バイトでは失敗ばかり。「生きる」という行為の輪郭がぼやけていたあかりに、生きるための莫大なエネルギーを与えたのは推しとの出会いで、生き続ける理由も推しの存在だった。

 

 

私が推しの1人と出会ったのは小学生の頃だった。

推しが所属しているグループ名は知っていたものの、テレビに映るその人がそのグループに所属しているとは認識していなかった。推しの名前も聞いたことはあったが、テレビに映るその人とは結び付いていなかった。

ただ、テレビで優しい顔をしてギターを弾く彼を見た時に、「この人、好きだ」と思った。ある種の初恋のようなものだった。

 

あかりと同様、私が推しをしっかりと推すのは、この出会いから少し後のことになる。中学生ともなると、周りにもアイドルが好きな友人が増え、ひたすら推しの話をしていたように思う。解釈だとか、どういう応援スタンスだとか、そんなことは全く考えたことがなかった。ただただ楽しかった。

 

高校に入ってからも相変わらず推しのことが大好きだった。この辺りでもう1人の推しだった人とも出会うのだが、それについては後述する。

 

この頃、推しは雑誌のインタビューで次のように話していた。

 

「ファンの人たちの働く目的が『自分たちのものを買うため』になってはいけないと僕らは思っている。ちょっとしたモチベーションになるのはいいけど、それが主たる目的になっちゃいけない気がする。自分で稼いだお金は、その人自身に投資するべきで。それより僕らは、ひとりひとりの生活のサイクルの一部になればいいと思っています。」

 

当時の私には、この言葉の意味が分からなかった。校則でバイトが禁止されていた当時の私の世界は学校がほとんどで、友達と遊ぶ以外にお小遣いやお年玉を使うところといえば推ししかなかった。

意味は分からなかったけれど、ずっと私の中で引っかかり続けていた。

 

 

高校2年生の時、数学の授業でベクトルを習った。平面ベクトルが終わり、空間ベクトルに入る時、数学の教師が問いかけてきたことがある。

 

「椅子のようなものを想像してみろ。物が安定して立つために必要な柱の数は最低何本だと思うか?答えは3本だ。」

 

今思えば、とても太ければ1本でもいいのではないかとか、デザインでいかようにもなるのではないかとか、色々思うことはあるのだが、変に素直だった私は、その数学教師の話に妙に感銘を受けた。

「もしかすると、人間が安定して立つために必要な柱の数も3本なのかもしれない」と、しばらく経った頃にふと思った。

 

主人公のあかりは、推しを「背骨」と例えた。勉強、部活、バイトや、そこで得たお金で友達と行く映画やご飯などを全てそぎ落とし、推しという背骨に人生を集約していた。あかりの柱は1本だった。

 

私の柱も長い間1本だったが、高校、大学と時を経るにつれ、だんだんと興味の幅が広がっていった。推しと呼べる人はもう1人増えていた。アイドル以外の分野も含めれば、柱の数は3本どころの話ではなかった。

 

それなのに、私はそのバランスが崩れていった。後から増えたもう1人の推しに、時間やお金、感情が集約されていった。依存していた。作中のあかりを見ながら、その当時の私を思い出す時があった。

 

バランスが崩れた時のことを思うと、ちょうど色々なことが重なっていたように思う。最初に好きになった推しに、熱愛報道が出た。SNSは燃えていた。推しに恋愛感情を抱いたことなどなかったが、その状況から目をそらしたかった。

職場の人間関係が劣悪だった。朝なんか来てほしくなかった。目が覚めて、玄関から出るのに尋常じゃない気力が必要だった。

 

作者の宇佐見さんは、インタビューの中で次のように述べていた。

 私は、自分の力では歩けない時期っていうのはあると思っていて。生活にはいろいろなタスクがあって、勉強でも仕事でも、締め切りがあるものに食らいついていかなきゃいけない。しんどいけどなんとかやっていかなきゃ、っていうとき、推しに触れたことによってぼっとエネルギーが生まれて、その勢いで進める。推しが推進力になる感覚です。

 ああ、あの時の私だ。そう思った。

 

そうやって依存していたもう1人の推しだった人もよく燃えていた。あかりが推しに対して放った言葉や感情は、私が彼に向けていたそれに近いものがあった。あかりの方がもう少し重くて、湿度が高いとは思うけれど。

 

外野に「花畑」「信者」と揶揄される様も、とても見覚えがあった。あかりに対して「どうしてこんなに傷ついてまで推し続けるのだろう」と思いながらも、必死に生きようと推し続ける気持ちも同時に分かってしまう私がいた。結婚したいとか、彼女になりたいとか、そういう感情では全くなくて、もっと切実で、生きるために必要だからとすがりつく必死さ。共感を超えて、どうしようもなく痛かった。

 

やめてくれ、あたしから背骨を奪わないでくれ。推しがいなくなったらあたしは本当に、生きていけなくなる。あたしはあたしをあたしだと認められなくなる。

 

あかりの推しは、最後のインスタライブで「ありがとう、今まで。おれなんかについてきてくれて」と言った。私の推しだった人が過去に話した言葉を思い出して、鼻の奥の方がツンと熱くなった。

 

彼がずっとアイドルでい続ける気がないことはどこかで分かっていた。いつか辞めることも分かっていた。そもそも、彼に限らずアイドルという存在が永遠ではないことは分かっていた。分かっているのに、どうしてか永遠を夢見てしまうのがファンの悲しい性だ。

 

あかりが推しと出会った時、推しはピーターパンを演じていた。あかりはその推しに魅せられ、思わず「ネバーランドに行きたい」と口にした。

 

永遠を信じたかった。ネバーランドに行きたかった。醒めない夢がよかった。そんな夢は叶わないと分かっていた。何度も何度も、上手にさよならを言う練習をしていた。

 

 

推しが燃えた。そしてアイドルを辞めた。

 

あかりと違って、私には彼について行くか否かという選択権が委ねられていた。当然ついて行くと思っていた。

ただ、高校時代に聞いたもう1人の推しの言葉と、数学教師の言葉が引っかかり続けていた。とてつもなく依存していたくせに、最後まで彼1人に振り切れなかったのは、これらの言葉が常に脳裏にあったからだと思う。

きっと、彼について行ったら、私は本当に背骨だけの不安定な存在になる。それこそ、私が死ぬと思った。だから、「ついて行かない」方の選択肢を選んだ。

 

本作の最後のシーンを読んだとき、私は「どうかあかりには幸せになってほしい」と思った。ふと、推しがアイドルを辞めたタイミングで、私が当時のTwitterアカウントを消した時のことを思い出した。マシュマロで「どうか幸せでいてください」と送ってくれた人がいた。

「何故このタイミングで私の幸せを願うのだろう」と当時は思っていたが、もしかすると彼女には私が「あかり」に見えていたのかもしれない。

 

 

私はファンの数だけ「好き」の種類があると思っている。私はあの日「ついて行かない」方を選んだが、私にとってはそれが最適解だっただけの話で、「ついて行く」が正解の人がいるのも当たり前だと思う。

それに限らず、恋愛や結婚、その他色々なことに対して、ファンは事あるごとに対立する。「好き」の種類が違うのだから、相反する価値観がぶつかり合うのも無理はない。何もかも受け入れられなくなるのも、許せないのも、全て肯定するのも、全くの無関心でいるのも、すべて間違っていない。

どうしたって考え方や価値観の相違は出てきてしまう。私は価値観の違う人とは仲良く付き合っていける自信は全くないが、自分とは違うスタンスの人の存在を否定する気もない。

 

ネット上では「しっかり者」に見られていたあかりには、普通の生活もままならない人生が付きまとっていた。あかりは、ネット上では「花畑」「馬鹿信者」と一部の人に揶揄され続けていたことと思う。そういったファンについてどれだけ他人が理解に苦しみ、否定したとしても、その裏には壮絶な人生があった。推しにしがみついてもがき続けないと、きっと彼女は生きていけなかった。

推しが燃えた時、「病めるときも健やかなるときも推しを推す」とつづったあかりは、最後までそれを貫き通していた。「盲目花畑信者」と罵られるであろうファンの、ひとつの人生を読んだようだった。

 

 

こういったこともあり、私はアイドルに依存していた自分を変えたいと思った。背骨のように依存していた状態から脱却するのは、私にとって初めは苦行だった。どうしてもどこかで寄りかかりたくなってしまう自分が嫌になることもあったが、アイドル側から提示された「逃げる場所にしたっていい」、「辛くて逃げたいことがあった時、ここに来たら楽しいことがある」という言葉に許された気がした。すごく救われた。いつか推しが言っていた「ちょっとしたモチベーション」、「ひとりひとりの生活のサイクルの一部」の意味が、ようやく分かった気がした。

 

1人の推しとはお別れをした私であるが、最初に好きになった推しのことは変わらず好きである。間違いなく私を支える柱の1本となっている。「逃げる場所にしてもいい」と言ってくれたアイドルたちももちろん大好きだ。彼らも私の柱の1つである。

私はどうしても色々なものに興味をもってしまう性質なので、相変わらず興味の対象は分散している。最低限必要な3本どころの話ではない。

 

ひとつ言えるのは、今、私は幸せだということだ。あの日、私の幸せを願ってマシュマロを投げてくれた誰かに伝えたい。

 

どうか、あかりのこの先の人生が温かくて幸せなものになることを願ってやまない。

 

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