パストラーレ

夢の世に かつ微睡みて 夢をまた 語る夢も それがまにまに

世界で一番似合わない色の話

2019年10月31日。
ハロウィーンの夜、私は嵐のコンサートで東京ドームにいた。その日とその前後のお話。

嵐が活動休止を発表したのが2019年1月27日。嵐だけは当たり前のようにずっと存在してくれると思っていたから、あまりの事態の大きさに呆然として、そのまま勢いで記事を書いた。
turtletalk.hatenadiary.jp


これは当時の私がその時思っていたことをそのまま素直に書いたものなので、現在の私との多少の齟齬はあるかもしれないが嘘はない。

当時の私は次のようなことを書き記している。

いつからか、私は自担たちに対して「アイドルなんて言葉で縛りつけてごめん」という罪悪感を抱くようになっていた。それこそ中高生の頃は「プロならプライベートを隠してくれ、夢を見せてくれ」などと少なからず思っていた記憶がある。ただ、どこかのタイミングで彼らの不自由さや人間に偶像を背負わせることの重さを感じるようになった。勝手に好きになって、勝手に期待して、勝手に裏切られた気持ちになって、勝手に離れていく。「好き」ってなんて自分勝手な感情なんだろうなと、ずっと考えていた。

こう考えている中で、アイドルのファンは、アイドルという人の人生を、彼らも私たちと同じ人間であることを半ば忘れているかのように消費して勝手に幸せになっているんだなと思った。ファンに彼ら・彼女らの自由や人生を奪う権利なんてないと思ったし、こんなに縛られて自由のない「アイドル」という職業を強いるなんて残酷だとまで感じた。私は生まれた頃から当たり前のようにアイドルを見てきたし、アイドルのことは間違いなく好きだけれど、アイドルという職業を肯定できないと思った。

それならせめて、私の好きなアイドルの皆さんには、「好き」「ずっと味方でいる」ということしか伝えたくない。「好き“だから”~」という、自分勝手な好きを理由に、好きのその先にある自分のエゴを押し付けるなんて絶対したくない。

2020年12月31日を、私がどんな気持ちで迎えるのかは今はまったく分からない。ただ、その時も変わらず私は、二宮くんのことが、嵐のことが好きなんだろう。なんなら、その先もずっと二宮くんのことが好きだと思う。ずっと私にとって初恋のような人だと思う。

私は基本的にネットニュースや週刊誌、情報・愚痴垢等と呼ばれる類のものはブロックするなどし、遮断して生きている。記事やツイートの内容が真実であろうが、発表されるべき内容は然るべきタイミングで公式から行われるものだし、そうでないものは未来永劫行われないと思っているので、何が書かれていようが気にしないスタンスである。そのような状態なので、時々自分の知らないところで何かが炎上し、知らない間に鎮火することもあるが、特に自分の人生に影響は出ていないので知らなくても気にはしていない。
そんな中でも、時々Twitterのタイムラインなどから不穏な気配を察知することはある。該当記事を読むことは一切しないが、不穏な気配から、何に関してタイムライン上の人間が呟いているのかを把握することは少なくない。

そうやって知った中に、二宮くんのことももちろん含まれていた。私が知らないものもあるだろうけれど、一番最初に噂が出たときからコンスタントにその話を見かけていたと思う。
最初は特に気にしていなかったけれど、匂わせまとめを見た時は「これ進研ゼミで見たことある!」の顔をしたし(お察しください)、普通に考えてやばい女だなという印象しかなかった。やばすぎて「いやいや二宮くんがそんなわけ」と思った。だって驚くほどやばかったから。(語彙)

でも途中から、あ、これはきっと本当なんだろうなと思うようになった。それから段々と苦しくなってきて、テレビなどで二宮くんを見かけたときの感情が「好き」と「気持ちが悪い」が混ざったようなものになってきた。*1比較的色んなことに対して、ましてやこの件以上に大変なことだって許容してきたようなタイプなのに、何故これだけはそんなに受け入れられないのか。そんな自分がまた嫌で悲しくて。これじゃ私が嫌いな愚痴垢と同じじゃん、なんて思った。

活動休止まで、その先まで嵐や二宮くんのことが好きだと思っていたけれど、完全に分からなくなった。なんなら結婚したら嫌いに振り切れてしまうような気までしていた。

日に日に大きくなるこんな感情を引きずったまま迎えた10月31日。私は昨年12月のコンサート以降、ワクワク學校や番組観覧などにも一切行っていなかったので、その日が久々の、そして活動休止発表後最初の嵐だった。
色んな感情を抱えて入ったコンサート。私は面倒くさくて理屈っぽい性格なので、すぐに頭でひとつのことをこねくり回す癖があり、コンサート中も色んな事を考えていた。

…が。

Breathless、Monster、truthやFace down辺りの二宮くんを前に、それら理性的な脳内活動すべてを上回る圧倒的本能的衝動が押し寄せてきた。
正直防振覗きながら「めっちゃ顔面ド性癖」ということしか考えていなかった。
あまりにも最低のオタクである。

そんなこともあり、「なんか難しいこと色々考えてたけど本能レベルで二宮くん好きだからもうどうしようもない抗えない」というアホすぎる着地点に至った一方、最後の二宮くんの挨拶を聞き、何故だかわからないけれど胸の中で突っかかっていたものが取れたような気がした。

その時の挨拶は以下のようなものだった。

僕は20年の節目を二度迎えます。ひとつめは自分の20年、ふたつめは嵐の20年。
自分が二十歳になった頃を振り返ると、すごく中途半端だったなぁと思います。「あれをやろう」と思った3分後にはやる気がなくなっていたり、何かをやりたいと思ってそのまま1年が経っていたり。
でも嵐として生きてきた20年間は本気で生きてきたと思います。中には死にそうなこともあったし、つらいこと、悲しいこともあった。ずっとどの瞬間も本気を保てていたかは分からないけれど、この20年は濃かったし、これからも忘れることはないんだろうなぁと思います。

この挨拶を聞いた時、私は素直に「二宮くんって中途半端な人じゃなくない?」と疑問だった。そこからふと、私は過剰なまでに二宮くんに夢を見て押し付けていたのかもしれない、という考えに至った。私は、アイドルでもなければ芸能関係に精通した人間でもないくせに「アイドルらしく」だとか「プロ意識」だとか宣うような害悪オタクになんてなりたくないと自分が思っていたくせに、心のどこかでそれを求めて押し付けていたのかもしれない。その証拠に、私は色々な噂に対して「二宮くんがそんなことするはずない」なんて思っていたのだから。

頭の回転が速くて冷静で、少しドライなようで人の懐に入るのが上手くて、素直じゃなくてひねくれてて、舞台上でお客さんに対してパフォーマンスをする時はどれだけ体が不調でも、痛み止めでもなんでもしようがそれを一切見せなくて、そんな私が見てきた二宮くんは確かに事実であり真実だ。ただ、それらの事実から私が勝手に作り上げた「二宮くんはこうだと思う」「二宮くんがそんなことするはずない」という像は所詮想像でしかなく真実ではない。きっと、こちらに見せていないところの二宮くんは、私が思っているよりはもう少し人間らしくて、かっこ悪いところもアイドルらしくないところもあるのだろう。きっと私は10年以上好きでいるうちに、彼のことを神格化しすぎたのだ。

そう考えたら色んな噂についても「まあそんなこともあるよね」と思えるようになった。
相手の過去の行動が明らかにやばいのは明白だと思っているので、その点に関しては「このやろう!」なんて若干の苦しさは抱えつつ。


そんな感じで11月に入り、インフルエンザの予防接種に負け、体調不良の結果処方された薬にも負け、副作用の胃痛と激しい戦いを繰り広げていた最中。

結婚が発表された。

完全にタイミング~~~~!!!!(胃痛的な意味で)という気持ちである。
活動休止の時もだったが、何故か勝手に私が気持ちの整理をしたところで発表されるので、個人的には特に胃以外は大荒れではなかった。

ただ、仕方ないとは思うけれどTwitterは荒れていた。ですよね。

きっと私のようなタイプの方が稀有だとは思っているが、私個人の感覚としては「過去は変わらないから変わらず好きなままでいる」ということ。中学生だった私が10年以上かけて拾い集めてきた二宮くんに対する“好き”は、今このタイミングで発表された事実によって歪められ否定されるものではない。私の中では「嫌いになる=過去の自分が集めた“好き”という感情を自ら粉砕して否定する行為」であり、今の私にとってそれはひどく辛く悲しいと思う。それは私にとっては必要のない行為だ。

もし今後、二宮くんが決めた道の先で、私が好きだと思った二宮くんと大きく隔たりが生まれる変化が起こってしまったら、その時はきっと自然と離れるんだろうなと思う。でも、今この時点でも二宮くんのことを好きになったことは一度も後悔していない。むしろ人格形成が行われるような時期から好きだったのだから、今私がこんなに楽しく生きている要因に少なからず二宮くんがあると思う。そう思うと感謝しかない。だから、その時が来たとしても、私は過去の自分を否定することも二宮くんを否定することもしない。今ならその自信がある。

「好き」という一言の中にはグラデーションのように色々な感情が込められていると思う。同じ人を好きになったとしても、それぞれの思い出や価値観で少しずつ相違が生まれてくる。だから、このような状況下で出てくる意見や感情も、その“好き”の相違と同じ数だけあると思う。それについてはどうしても起こり得るものだし、仕方のないことだ。だから私はこの状況下で「本当のファンならこうあるべき」というひとつのモデル像を提示するのは明らかに間違っていると考えるし、色々な意見があっていいと思う。その存在は否定しない。

ただ、私個人の感情として、二宮くんを傷つけることだけは絶対的に許せないし悲しくなるので、せめて私の前では発さないでほしいな、なんて我儘を思ってしまう。誰が何と言おうと、私が曲がりなりにも二宮くんに少なからず救われて生きてきたことは変わらないので。


こんだけ文章を書きつつも「おめでとう」が素直に言えないのはきっとどこかで寂しさがあるからだと思うので、また言えるようになったら贈ります。
代わりに一言。



二宮くん、どうかずっと幸せでいてね。大好きです。

*1:この時の感情としては、高校三年生の冬に私の友達がクラスメイトの男の子と付き合いだし、毎日のように自習の時間に二人で合わせて教室を抜け出すのを目の前で見ていた時のそれに近い。伝われ。